※登場人物は全て仮名です。

私は、自分の部屋を「コックピット」と呼んでいました。
手を伸ばせば、全てが届く。 これこそが効率化の極致だと信じて疑わなかったのです。
デスクの足元には、読みかけのファッション誌。 その上には、食べかけのポテトチップス。
さらにその横には、スマホの充電ケーブルがとぐろを巻いています。
「床に物を置くな」 母は部屋をみるたびに口酸っぱく言いました。
ですが、私は反論したい。 棚にしまったら、出すのに3秒かかるじゃないですか。 床なら0.5秒です。 この2.5秒の短縮こそが、忙しい現代社会を生き抜くライフハックなのです。
そう、あの日までは本気でそう思っていました。
少し話は逸れますが、皆さんは「ヨガマット」を持っていますか。 私は持っています。 しかも、かなり分厚くて高いやつです。
半年前に「丁寧な暮らし」に憧れて買いました。 朝、太陽礼拝をする予定でした。 しかし現在、そのヨガマットは一度も広げられることなく、丸められたまま部屋の隅で「ポスター入れ」として第二の人生を歩んでいます。
筒状の穴に、推しのポスターが刺さっているのです。 ヨガマットの弾力が、ポスターを折れから守るのに丁度いい。 本来の用途とは違いますが、これもまた一つの収納術と言えるでしょう。
言えませんか。そうですか。
とにかく、私の部屋はそんな「あえて床に置いているのだ!」という物で溢れかえっていたのです。
あれは、金曜日の夜でした。 一週間の疲れを癒やすため、私は低めのデスクで「ご褒美タイム」を満喫していました。
コンビニで買った、ちょっと高いアイスカフェラテ。 Lサイズです。 氷がカランと音を立てるたび、至福の時が流れます。
Netflixでドラマを見続け、気づけば時刻は深夜2時。 生理現象には勝てません。 トイレに行こうと立ち上がった、その瞬間でした。
「痛っ……!!!」
足の小指に、激震が走りました。 犯人は、床に積み上げていた「美容雑誌タワー」です。 平積みされた角の硬さは、もはや凶器。
あまりの激痛に、私は反射的にのけぞりました。 右手が、デスクの上のカフェラテをなぎ払います。
スローモーションのように見えました。 蓋が外れ、たっぷりのミルクコーヒーが宙を舞う。 そして、着地点は3日前に新調したばかりの「毛足の長い白いラグ」。
バシャァッ……。
鈍く、重たい音が部屋に響きました。 白い大地が、みるみるうちに茶色く汚染されていきます。 甘ったるい匂いが、部屋の空気を支配しました。
また少し話が逸れますが、足の小指という器官について考えたことはありますか。 普段は存在感がないくせに、ぶつけた時だけ「ここにいるぞ!」と全力で自己主張してくる。 あの痛みは、人体のバグだと私は思います。
脳が痛みの信号でパンクし、声も出ない。 うずくまりたいけれど、床はコーヒーの海。 どうすればいいの。
「と、とりあえず拭かなきゃ!」
痛みで涙目になりながら、私はティッシュを探しました。 しかし、ティッシュはデスクの向こう側。 そこへ行くには、床に散乱した「お菓子ボックス」や「未開封の郵便物」をまたぐ必要があります。
普段なら、ヒョイとまたげます。 でも今は、小指がジンジンして片足立ちができない。
「どけなきゃ……」
雑誌の山をどかそうとしました。 重い。 10冊以上の雑誌は、まるで漬物石です。 持ち上げようとした拍子に、バランスを崩してさらにコーヒーの水たまりに手をついてしまいました。
「終わった……」
コーヒーは、ラグの繊維の奥深くまで浸透していました。 1万5000円。 なけなしのボーナスで買った、フワフワのラグ。 それが、たった数秒で巨大な茶色いシミ抜き実験台に変わりました。
その時、悟ったのです。 「動かせない収納は、ただの障害物だ」と。
もし、あの雑誌の山にもし、タイヤがついていたら。 足で軽く蹴るだけで、道が開けたはずです。 痛む小指を抱えながら、私はスマホを取り出しました。
検索窓に打ち込んだ言葉は「床 収納 動く」。 そこで表示されたのが、以前SNSで見かけてスルーしていた『キャスター付きワゴン』でした。
正直、ナメていました。 「美容師さんが使ってるやつでしょ?」 「おしゃれな部屋の人が、観葉植物とか置くやつでしょ?」
違いました。 あれは、おしゃれアイテムではありません。 私のようなズボラ人間のための「緊急回避システム」だったのです。
画面の中のインフルエンサーが言っていました。 「掃除機をかけるとき、片手でスッと動かすだけ」 「料理中、調味料を必要な場所まで連れてくる」
これだ。 私が求めていたのは、この「機動力」でした。
検索していくと、いろんな種類が出てきます。 スチール製の頑丈なやつ。 プラスチック製の軽い天板付き。 キッチンや洗面所の隙間に入る、幅の狭いスリムタイプ。
「これなら……私のコックピット生活を守れるかもしれない」
私はその場で、3段のキャスター付きワゴンをポチりました。 色は黒。 もう二度と、小指の事故やコーヒーのシミに怯えたくなかったからです。
2日後、ワゴンが届きました。 組み立ては15分ほど。 完成した相棒に、私は床の上の住人たちを移住させました。
上段:スマホ充電器、リモコン、ティッシュ。 中段:ポテトチップス、チョコレート、クッキー。 下段:読みかけの雑誌、これから読む本。
全てが収まりました。 そして、運命の瞬間です。 指一本で、ワゴンを押してみる。
スーッ……。
滑らかに動く! 重たい雑誌が乗っているのに、まるで氷の上を滑るようです。 必要な時はデスクの真横に引き寄せ、邪魔な時は部屋の隅へ追いやる。
「こいつ……動くぞ!……」(某有名なセリフが頭の中をよぎる)
感動しました。 床が見えるのです。 あんなに物で埋め尽くされていた床が、久しぶりに顔を出しています。
味をしめた私は、キッチン用にもう一台買い足しました。 これまでコンロ周りに直置きしていた油や調味料。 掃除のたびに一つ一つ持ち上げるのが面倒で、底が油でベトベトになっていました。
それも全てワゴンへ。 料理する時だけコンロ横に持ってきて、終わったら冷蔵庫の横へ退避。 油ハネの掃除が、驚くほど楽になりました。 「0秒」で移動できるって、こういうことか。
デスク周りだけではありません。 サニタリー、洗面所。 洗濯洗剤やシャンプーのストックも、全部ワゴンです。 湿気の多い場所こそ、床から浮かせることが重要だと気づきました。 カビ対策にもなるなんて、もっと早く教えてよ。
今、私の部屋の床には何もありません。 あるのは、キャスター付きのワゴンだけ。
掃除機をかけるのが趣味になりました。 だって、邪魔なものが何もないから。 ワゴンを足でクイッとひっかけて押して、ガーッとかけるだけ。 ストレスフリーです。
もしあなたが、床にある物をまたいで生活しているなら。 その一歩は、いつか大事故につながります。 私のように、お気に入りのラグを犠牲にする前に。 小指を犠牲にする前に。
悪いことは言いません。 キャスター付きワゴンを買ってください。
それは単なる収納棚ではありません。 あなたの部屋に「道」を作る、最強のインフラなのです。 3000円ちょっとで、平穏な生活と小指の安全が買えるなら、安いものだと思いませんか。